だが、琢磨にも責任はある。そこで自分の考えを述べることにした。「俺だったら……。明日香ちゃんと朱莉さんをここから別の場所に移して、出産するまではそこで暮らしてもらうかな……。妊娠中は別の場所で過ごすって形を取れば、わざわざ朱莉さんにしたって妊婦の恰好をする必要は無いんだからな」自分で言っておきながら、琢磨は胸を痛めていた。(俺は最低だ……。明日香ちゃんが産む子供を、あたかも朱莉さんが出産するように見せかけるためにこんな手段を考えつくなんて……)しかし、当の翔は琢磨の心情を知ってか知らずか納得して頷く。「うん、そうだな。それが最もいい方法かもしれない。何所か明日香が妊娠期間中、穏やかに暮らせるような場所を探すことにしよう。出来れば朱莉さんにも明日香の妊娠期間中は近くに住んでもらって……」もう翔は自分の中で計画を立て始めていた。「おい……お前、まさか……朱莉さんと明日香ちゃんを同じ家に住まわせるつもりか?」「駄目か?」「駄目だ! いくら何でもそれだけはこの俺が許さないぞ! 大体良く言われてるじゃないか。妊娠期間中はホルモンバランスが崩れてイライラしやすくなるとか。その苛立ちを明日香ちゃんが朱莉さんにぶつけたらどうするんだ? せめて近所でも構わないから一緒には暮らさせるな。明日香ちゃんの面倒なら家政婦を現地で雇えばいいだろう?」喚きながら琢磨は心の中で自分自身をなじっていた。(くそ! こうやって俺は明日香ちゃんと翔の片棒を担いでいくことになるのか? これじゃますます朱莉さんとの距離が離れていってしまう……!)翔は琢磨の顔色が悪いことに気が付いた。「大丈夫か琢磨。何だか随分顔色が悪いようだが?」「い、いや。何でもない。俺のことは気にするな。朱莉さんに明日香ちゃんの妊娠を告げるときは……翔、お前から告げてやれよ」琢磨は翔の肩にポンと手を置いた。「分かったよ」「さて、それじゃ仕事を再開するか」琢磨は立ち上がると自分のデスクに向かい、PCの操作を始めた――**** その日の夜――朱莉がお風呂からあがってくると、翔との連絡用スマホにメッセージが届いていることに気が付いた。「あ、翔先輩からだ」朱莉の顔に自然と笑みが浮かぶ。翔とのメッセージのやり取りはいつも業務連絡のように単調なものだったが、それすらも朱莉にとっては嬉しかった。(
—―翌朝 朱莉は憂鬱な気持ちでカーテンを開けた。窓からは眩しい太陽の光が差し込んでくる。今日からゴールデンウィークに入るが、朱莉には特に重要な予定は入っていなかった。京極からは何度かゴールデンウィークに何処かへ出掛けようとの誘いのメッセージが入っていたが、朱莉はそれら全てをやんわりと断っていた。やはり書類上とはいえ、朱莉はこれでも人妻だ。当然京極もそれを承知の上なのに、何故朱莉に誘いをかけてくるのか、謎であったし、世間の目も気になった。それに何より契約婚を交わした時の書類には浮気は一切しないようにと書かれている。別に朱莉は京極に恋愛感情を持っている訳では無いが、一緒に出掛けたりすれば当然周囲の目から疑いの目で見られるのは分かり切っていたし、何より京極に迷惑をかけてしまいそうだったからだ。「私みたいに面倒な人間じゃなくて、もっと普通の女性を誘えばいいのに」朱莉はネイビーに水と餌を与えながら思わずポツリと呟いていた。それに京極からの誘いを断って来た理由はそれでけではない。「九条さん……」あのホワイト・デーの夜…まだうすら寒い外でコートの襟を立てて自分を待ってくれていた琢磨。そしてホワイト・デーのお礼として紙バックを渡してきた時のあの悲しそうな顔が目に焼き付いて、今も離れなかった。あの目は……どういう意味だったのだろう……。****「翔! ほら、早く! そろそろタクシーが来る時間よ!」明日香が大きなキャリーバックを前に億ションのエントランス付近で声をかけている。「ああ、分かった。今行くよ」翔は笑顔でキャリーケースを引っ張って出口に向かおうとした時、突然背後から声をかけられた。「おはようございます、旅行にでも行かれるのですか?」振り向くと、そこに立っていたのは2匹の犬を連れた京極であった。彼は険しい顔で翔と明日香を交互に見つめた。「え、ええ……ちょと……」翔は俯きながら返事をした。(まずい相手に会ってしまったな…)「ええ、そうよ。私達、これから沖縄へ行くのよ。そろそろ迎えのタクシーが来る頃だから邪魔しないでいただける?」明日香はゆったりした真っ赤なワンピースを揺らせながら口を挟んできた。「旅行はお2人だけで行かれるのですか?」京極は鋭い目つきで翔を見る。「……」翔が返事に困っているとまたもや明日香が言った。「ええ。そうよ。
—―同時刻 琢磨は食後のコーヒを飲みながらインターネットで検索をしていた。明日香と翔が沖縄旅行から戻ってくる前に、明日香が出産をする為に適した環境の地域を検索していたのだ。「医療設備も充実していて……温暖な気候……何処か良い地方都市は無いかな……」本来なら、明日香の為にこんな事をしてやる義理は琢磨には一切無い。今こうして検索してどこかの地方都市を探しているのは全ては朱莉の為であった。明日香のお腹が目立ってくる前に、2人をあの場所から離さなくてはならない。かといってそれぞれを全く別の土地に置くことも出来ない。いざという時の為に明日香の妊娠期間をどのように過ごしていたのかを朱莉が知っておく必要が出てくるかもしれないからだ。何せ、朱莉が出産したように世間を偽る必要があるからだ。「後は口が堅い病院を探さなければな……」偽証罪になってしまうのかもしれないが、明日香の出産記録を朱莉の記録に変えてもらわなければならないのだから、誰にも絶対に口外しない医者を探し出す必要がある。最悪、海外で明日香に出産させるという選択肢もあるが……出来れば日本で出産させたい。「ふう~」琢磨はパソコンの前で伸びをすると時計を見た。時刻は午前10時を過ぎた所である。恐らくもう翔と明日香は沖縄旅行へ出発しているはずだ。(朱莉さんは2人がゴールデンウィークの間、沖縄旅行へ行くことを知ってるのだろうか……?)琢磨は目をつぶると朱莉のことを思うのだった—―****「それじゃ、ネイビー。出掛けて来るからお利口にしていてね」朱莉はサークルの中に入っているネイビーの頭を撫で。朱莉は先月から教習所に通っていた。免許を取れば、1人で好きな場所へ行くことが出来る。それに母を乗せて買い物に連れて行ってあげることだって出来るのだ。「少しでも早く免許を取れるように頑張らなくちゃね」独り言を言いながらエレベーターに乗り込む朱莉。やがてエレベータは1階に止まり、エレベーターホールから降りると偶然京極に鉢合わせした。「「あ」」2人で同時に声を上げ……朱莉はすぐに頭を下げた。「こんにちは、京極さん」「こんにちは。朱莉さん。ああ……やはりこちらに残ってらしたんですね」「え? それはどういう意味でしょうか?」朱莉は顔を上げて京極を見た。「いえ。何でもありません。ところで朱莉さん。何処かへお
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以
「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」琢磨はからかうような口ぶりで言う。「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」翔は机をバシンと叩きながら抗議する。「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」翔は苦虫を潰したような顔になる。「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だか
今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。 HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」 思わず朱莉はその名前を口にしていた――**** 話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。 背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」朱莉はポツリと呟いた。 ****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしま
「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」朱莉は声を震わせた。「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」面倒臭そうに答える翔。偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。(そ、そんな……!)朱莉はその言葉に絶望した。「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。(本当に……本当に私の為なんですか……?)今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院
――翌朝 朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。(よ、良かった……間に合った……)早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。「あの……須藤朱莉と申しますが……」そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」受付嬢は電話を掛けた。(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」「はい、よろしくお願いいたします」挨拶を交わすと琢磨
—―同時刻 琢磨は食後のコーヒを飲みながらインターネットで検索をしていた。明日香と翔が沖縄旅行から戻ってくる前に、明日香が出産をする為に適した環境の地域を検索していたのだ。「医療設備も充実していて……温暖な気候……何処か良い地方都市は無いかな……」本来なら、明日香の為にこんな事をしてやる義理は琢磨には一切無い。今こうして検索してどこかの地方都市を探しているのは全ては朱莉の為であった。明日香のお腹が目立ってくる前に、2人をあの場所から離さなくてはならない。かといってそれぞれを全く別の土地に置くことも出来ない。いざという時の為に明日香の妊娠期間をどのように過ごしていたのかを朱莉が知っておく必要が出てくるかもしれないからだ。何せ、朱莉が出産したように世間を偽る必要があるからだ。「後は口が堅い病院を探さなければな……」偽証罪になってしまうのかもしれないが、明日香の出産記録を朱莉の記録に変えてもらわなければならないのだから、誰にも絶対に口外しない医者を探し出す必要がある。最悪、海外で明日香に出産させるという選択肢もあるが……出来れば日本で出産させたい。「ふう~」琢磨はパソコンの前で伸びをすると時計を見た。時刻は午前10時を過ぎた所である。恐らくもう翔と明日香は沖縄旅行へ出発しているはずだ。(朱莉さんは2人がゴールデンウィークの間、沖縄旅行へ行くことを知ってるのだろうか……?)琢磨は目をつぶると朱莉のことを思うのだった—―****「それじゃ、ネイビー。出掛けて来るからお利口にしていてね」朱莉はサークルの中に入っているネイビーの頭を撫で。朱莉は先月から教習所に通っていた。免許を取れば、1人で好きな場所へ行くことが出来る。それに母を乗せて買い物に連れて行ってあげることだって出来るのだ。「少しでも早く免許を取れるように頑張らなくちゃね」独り言を言いながらエレベーターに乗り込む朱莉。やがてエレベータは1階に止まり、エレベーターホールから降りると偶然京極に鉢合わせした。「「あ」」2人で同時に声を上げ……朱莉はすぐに頭を下げた。「こんにちは、京極さん」「こんにちは。朱莉さん。ああ……やはりこちらに残ってらしたんですね」「え? それはどういう意味でしょうか?」朱莉は顔を上げて京極を見た。「いえ。何でもありません。ところで朱莉さん。何処かへお
—―翌朝 朱莉は憂鬱な気持ちでカーテンを開けた。窓からは眩しい太陽の光が差し込んでくる。今日からゴールデンウィークに入るが、朱莉には特に重要な予定は入っていなかった。京極からは何度かゴールデンウィークに何処かへ出掛けようとの誘いのメッセージが入っていたが、朱莉はそれら全てをやんわりと断っていた。やはり書類上とはいえ、朱莉はこれでも人妻だ。当然京極もそれを承知の上なのに、何故朱莉に誘いをかけてくるのか、謎であったし、世間の目も気になった。それに何より契約婚を交わした時の書類には浮気は一切しないようにと書かれている。別に朱莉は京極に恋愛感情を持っている訳では無いが、一緒に出掛けたりすれば当然周囲の目から疑いの目で見られるのは分かり切っていたし、何より京極に迷惑をかけてしまいそうだったからだ。「私みたいに面倒な人間じゃなくて、もっと普通の女性を誘えばいいのに」朱莉はネイビーに水と餌を与えながら思わずポツリと呟いていた。それに京極からの誘いを断って来た理由はそれでけではない。「九条さん……」あのホワイト・デーの夜…まだうすら寒い外でコートの襟を立てて自分を待ってくれていた琢磨。そしてホワイト・デーのお礼として紙バックを渡してきた時のあの悲しそうな顔が目に焼き付いて、今も離れなかった。あの目は……どういう意味だったのだろう……。****「翔! ほら、早く! そろそろタクシーが来る時間よ!」明日香が大きなキャリーバックを前に億ションのエントランス付近で声をかけている。「ああ、分かった。今行くよ」翔は笑顔でキャリーケースを引っ張って出口に向かおうとした時、突然背後から声をかけられた。「おはようございます、旅行にでも行かれるのですか?」振り向くと、そこに立っていたのは2匹の犬を連れた京極であった。彼は険しい顔で翔と明日香を交互に見つめた。「え、ええ……ちょと……」翔は俯きながら返事をした。(まずい相手に会ってしまったな…)「ええ、そうよ。私達、これから沖縄へ行くのよ。そろそろ迎えのタクシーが来る頃だから邪魔しないでいただける?」明日香はゆったりした真っ赤なワンピースを揺らせながら口を挟んできた。「旅行はお2人だけで行かれるのですか?」京極は鋭い目つきで翔を見る。「……」翔が返事に困っているとまたもや明日香が言った。「ええ。そうよ。
だが、琢磨にも責任はある。そこで自分の考えを述べることにした。「俺だったら……。明日香ちゃんと朱莉さんをここから別の場所に移して、出産するまではそこで暮らしてもらうかな……。妊娠中は別の場所で過ごすって形を取れば、わざわざ朱莉さんにしたって妊婦の恰好をする必要は無いんだからな」自分で言っておきながら、琢磨は胸を痛めていた。(俺は最低だ……。明日香ちゃんが産む子供を、あたかも朱莉さんが出産するように見せかけるためにこんな手段を考えつくなんて……)しかし、当の翔は琢磨の心情を知ってか知らずか納得して頷く。「うん、そうだな。それが最もいい方法かもしれない。何所か明日香が妊娠期間中、穏やかに暮らせるような場所を探すことにしよう。出来れば朱莉さんにも明日香の妊娠期間中は近くに住んでもらって……」もう翔は自分の中で計画を立て始めていた。「おい……お前、まさか……朱莉さんと明日香ちゃんを同じ家に住まわせるつもりか?」「駄目か?」「駄目だ! いくら何でもそれだけはこの俺が許さないぞ! 大体良く言われてるじゃないか。妊娠期間中はホルモンバランスが崩れてイライラしやすくなるとか。その苛立ちを明日香ちゃんが朱莉さんにぶつけたらどうするんだ? せめて近所でも構わないから一緒には暮らさせるな。明日香ちゃんの面倒なら家政婦を現地で雇えばいいだろう?」喚きながら琢磨は心の中で自分自身をなじっていた。(くそ! こうやって俺は明日香ちゃんと翔の片棒を担いでいくことになるのか? これじゃますます朱莉さんとの距離が離れていってしまう……!)翔は琢磨の顔色が悪いことに気が付いた。「大丈夫か琢磨。何だか随分顔色が悪いようだが?」「い、いや。何でもない。俺のことは気にするな。朱莉さんに明日香ちゃんの妊娠を告げるときは……翔、お前から告げてやれよ」琢磨は翔の肩にポンと手を置いた。「分かったよ」「さて、それじゃ仕事を再開するか」琢磨は立ち上がると自分のデスクに向かい、PCの操作を始めた――**** その日の夜――朱莉がお風呂からあがってくると、翔との連絡用スマホにメッセージが届いていることに気が付いた。「あ、翔先輩からだ」朱莉の顔に自然と笑みが浮かぶ。翔とのメッセージのやり取りはいつも業務連絡のように単調なものだったが、それすらも朱莉にとっては嬉しかった。(
季節は流れ、早い物で明日からゴールデンウィークに入ろうとしていた。あの3月14日のホワイト・デーの夜。琢磨は人生で最も屈辱的な気持ちを味わい、それ以来朱莉と会うことも、連絡を取り合う事もすっかり無くなっていた。尤も朱莉と連絡を取り合う事が無くなった理由の一番の要因は、翔と朱莉が直接連絡を取り合うようになっていたからだ。2人が連絡を取り合えるようになった理由は明日香の方も最近は朱莉との連絡に対して翔や朱莉に文句を言うことが無くなったからである。これも偏にカウンセラーのお陰ともいえる。「それで明日から明日香ちゃんと旅行に行くって言う訳か。何所へ行くんだっけ?」昼の休憩時間、琢磨はケバブサンドを食べながら翔に尋ねた。「明日香の希望で沖縄と与論島に行くことにしたんだ」翔はキーマカレーを食べながら答えた。「珍しいな……いつもなら毎年大体海外に行っているだろう? 一体何があったんだ?」「いや、実は……明日香に子供がまた出来たんだ……」照れる翔に対し、驚く琢磨。「何だって!? 朱莉さんはそのことを知ってるのか!?」琢磨は険しい顔つきで尋ねた。「いや、まだだが? 実は今夜、報告しようと思ってるんだ」「そうか……今回は大丈夫なんだろうな?」「もう明日香は精神も大分安定してきたし、3カ月以上精神安定剤を服用もしていない。だから今度こそ間違いはない……だろう」翔はためらいながらも断言した。「大体、明日香ちゃんが子供を産むのはまだ無理だと以前お前は言っていたじゃないか? それがどういう風の吹き回しなんだ? 今は子供の誕生を何だか待ち望んでいるようにも聞こえるぞ?」食事を終えた琢磨はコーヒーを飲みながら首を傾げる。「実は……それなんだが……」翔が言いよどむ。「何だよ、はっきり言えよ」「そうだよな、隠していてもしようがない。実は祖父から言われていたんだ」「言われていたって……何を?」「その……いつになったらひ孫の顔が見れるんだ? って……」ひ孫の顔……。その言葉にピクリと琢磨は反応する。「だから、今回明日香が再び妊娠したのは丁度タイミングが良いと言うか……」「おい、翔。それで明日香ちゃんの妊娠中はどうするんだ? ずっとあの億ションんに住んでるのか? それに朱莉さんはどうする? お前の計画では明日香ちゃんが妊娠した場合は朱莉さんにも妊婦の
「朱莉さん。もしよければ何処かで食事をして帰りませんか? この近くに美味しいイタリアンの店があるんですよ。お詫びにご馳走させて下さい」病院を出ると、京極が朱莉を食事に誘ってきた。「お詫びなんて言わないで下さい。マロンの病気は京極さんのせいではありませんから」すると……。「お詫びなんてただの口実です。朱莉さん。僕は貴女に色々聞きたいことがあるんです。どうか僕の為に朱莉さんの時間を分けて貰えませんか?」京極がいつになく真剣な目で朱莉を見つめている。「き、聞きたいこと……?」朱莉は口元を震わせ、京極は慌てた。「い、いえ! 決して朱莉さんを尋問しようとかそんなつもりはなく……ただ、色々とお話しできればと思っただけなので。答えたくなければ答えなくて結構ですから。ただ朱莉さんと話がしたいだけなんです」京極にはマロンを預かって貰った恩がある。だから彼の誘いを無下にすることは出来なかった。「分かりました。食事……御一緒させて下さい……」躊躇いがちに朱莉は返事をすると、京極が笑顔になる。「良かった……。ありがとうございます、朱莉さん」その笑顔は子供のように無邪気だった――**** 京極が連れて来てくれたイタリアンレストランは堅苦しい雰囲気が一切無く、カジュアルなイメージで料理もバリエーションに富み、美味しかった。 特にデザートのパンナコッタはとても朱莉の好みの味だった。 お店を出て、助手席に乗ると朱莉は嬉しそうにお礼を述べた。「京極さん、今夜は素敵なお店に連れて来て下さり、本当にありがとうございました。イタリアン料理とても美味しかったです」すると京極は笑顔になる。「こんなに朱莉さんに喜んでもらえるとは思いませんでした。てっきり今夜は断られてしまうかと思って、強引にお誘いしてしまったのですが……無理にお誘いした甲斐がありました。これで少し安心出来ましたよ」「え……? それは一体どういう意味ですか?」(今の京極さんの台詞……すごく意味深に取れるのだけど……気のせいかな?)すると、朱莉の質問に答える前に京極が言った。「ああ……あそこにいるのはやはり……」「え?」気づいてみると、そこはもう億ションのエントランスの前だった。そしてエントランスに設置してある椅子に人影がある。朱莉は驚きで目を見開いた。「あ、あの人は……京極さん! 車を止めて
――3月14日金曜日 朱莉が部屋で課題のレポートを仕上げた頃、個人用スマホが鳴った。(誰からだろう……? 九条さんかな?)スマホをタップし、驚いた。何と相手は京極からだったのだ。『こんにちは、朱莉さん。実は昨日からマロンの具合があまり良くありません。これから獣医へ連れて行くところですが、良かったら一緒に獣医の所へついて来て貰えますか? 朱莉さんからマロンを引き取る前の話も出来れば病院で教えて貰いたいので。でもどうしても都合がつかなければ、無理にとは言いません』「え……! マロンが……?」マロンに会っていいものかどうか、朱莉は一瞬迷った。だが、元々は朱莉が飼い主。マロンが心配な気持ちに変わりない。時計を見ると16時になろうとしている。母には悪いが今日の面会は無理だろう。朱莉はすぐに母親の入院先の病院へ電話を入れて、面会に今日は行けそうに無い旨を言伝して貰うことにした。その後、京極にメッセージを送った。『はい、勿論大丈夫です。何時に何処で待ち合わせをすればよろしいでしょうか?』**** 京極が指定して来たのはドッグランだった。朱莉は気が急く思いで待っていると、キャリーバックにマロンを入れた京極がやって来た。「朱莉さん、お待たせしてすみません」「いえ……。それでマロンの様子は……?」朱莉はキャリーバックの中を覗くと、マロンがぐったりした様子で眠っている。「マロン……!」朱莉は悲痛な声を上げた。「朱莉さん。今からこちらに車を回してくるので、マロンを連れてここでお待ちいただけますか?」「はい、勿論です。よろしくお願いします」京極は頷くと小走りに駐車場へと向かって行った。それからものの5分程で、朱莉の前に1台のベンツがやってきて止まると運転席のドアが開き、京極が下りてきた。「朱莉さん、乗って下さい」「はい」朱莉は後部座席に乗り込んだ。「朱莉さん、助手席に乗らなくて良いのですか?」京極は朱莉を振り返りながら質問した。「はい、マロンの様子を見たいので後部座席に座らせて下さい」「分かりました。それじゃ出発しますね」京極はハンドルを握ると、アクセルを踏んだ――**** 京極の話では昨日から少しマロンの食欲が落ちて、元気があまりなかったと言う。そして今日になり、下痢や嘔吐、発熱の症状が起こったそうだ。「本当にすみません……
その頃、琢磨と翔は仕事の合間の小休憩していた。「翔、明日はホワイト・デーだ。しかも週末。何か予定は立てているのか?」ブルーマウンテンを飲みながら琢磨が尋ねた。「勿論だ。フランス料理のレストランを予約してあるんだ。そこへ行く」翔はカフェ・ラテを飲みながら答えた。「……何人で行くつもりだ?」「え? 2人で行くに決まっているだろう?」「それって……明日香ちゃんとか?」何故かイライラした口調の琢磨。「勿論だ。え? もしかして朱莉さんも誘えってことか?」「朱莉さんはどうするんだよ? お前手編みのマフラー貰ってるよな?」「彼女にはギフトとして若い女性に人気のスイーツを買ってある。明日自宅に届くように配達を頼んでいる所だ」翔の無神経な言葉に琢磨はつい声を荒げてしまった。「おい、翔! 何処の世界にホワイト・デーのお返しをお中元やお歳暮じゃあるまいし郵送する奴がいるんだ? しかも朱莉さんはお前達のすぐ真上の階に住んでるじゃないか! 直接届けて顔を見せてあげようとかは思わないのか?」「何を言ってるんだよ、琢磨。明日香の手前、そんなことが出来ないのは知ってるだろう? それに彼女が俺にマフラーを編んでくれたのも一応書類上は俺の妻になってるからだ。その役目を果たそうと編んでくれたんだろう? 第一俺と朱莉さんは契約婚で、そこに何らかの感情が伴っている訳でも無いのだから」翔の言葉に琢磨は呆れてしまった。(はあ? 翔の奴、本気でそんな風に思っていたのか? あれ程朱莉さんに好意を寄せられてるってことに全く気が付いていないって言うのか? 信じられない……これでは、あまりに朱莉さんが気の毒過ぎる!)だからつい、余計な事と思いつつ琢磨は口にしてしまった。「だったら……だったら何故、俺に朱莉さんへのホワイト・デーのお返しを渡すのを頼まなかったんだ?」「は?」翔がぽかんとした顔で琢磨を見た。そして琢磨も今の発言に自分自身で驚いていた。(え……? お、俺は今一体何を言ってしまったんだ?)考えてみればおかしな話である。第三者がホワイト・デーのお返しを渡すなんて、世間一般では考えられない話だ。「わ、悪い。今の話は忘れてくれ。……どうかしていたよ……」琢磨は再びコーヒーに口を付けた。「琢磨は朱莉さんからバレンタインに何か貰ったのか?」「ああ。貰った」「へえ~何を
3月13日―― 今日も朱莉は母親の面会に来ていた。「お母さん、今日はネイビーの写真を持ってきたよ」朱莉はスマホで撮影したネイビーの写真を母に楽しそうに見せた。「あら、本当に可愛いわね。絵本のピーターラビットを思い出すわ」洋子は目を細めて写真を眺めている。結局、洋子は翔と朱莉、そして明日香の関係を尋ねる事は無かった。それは母の気遣いであることは痛いほど朱莉には分かっていた。だけど真実を母に告げる事等朱莉には出来ない。だから今は母のあえて何も聞かないという優しさに甘えていたいと朱莉は思うのだった。(ごめんね。お母さん……いずれ話せる時が来た時は全て話すから)朱莉はそのとき、ふとテーブルの上に琢磨が母にとプレゼントしてくれたマグカップに気が付いた。「お母さん、そのマグカップ使っているんだね」「ええ、デザインも素敵だし大きさも、持ちやすさも丁度良いのよ。確かお名前は……九条さんだったかしら? センスがある素敵な男性よね?」洋子はニコリと笑う。「そ、そうだね……」(お母さん、どうしちゃったんだろう? いつも九条さんの話になるとすごく褒めるけど……)「ねえ。朱莉は九条さんのような男性、どう思う?」洋子は意味深な質問をしてきた。「え……? 九条さんのこと?」朱莉は今迄の琢磨の行動を思い出してみた。もっとも最近は会う事も無く、最後に会ったのもこの病棟の中である。「う~ん。すごく仕事が出来て……気配りも出来る男性……かな?」「あら? それだけなの?」何故か残念そうに言う洋子に朱莉は首を傾げた。「う、うん……。そうだけど?」「そう……分かったわ。ところで朱莉、もう帰った方がいいんじないの? 通信教育のレポートの課題がまだ残ってるんでしょう?」「う、うん。そうなんだけど……」「私のことなら大丈夫だから、早く帰ってレポート仕上げなさい。単位が貰えないと大変なんでしょう?」朱莉は母親の提案に従うことにした。「うん。それじゃ、今日はもう帰るね」立ち上がって、コートを羽織る朱莉に洋子は声をかけた「朱莉、明日は特別な日になるといいわね?」「え? 何のこと?」朱莉には母が言っている話が理解出来なかった。「フフフ……なんでもないわ。それじゃ気を付けて帰るのよ?」「うん、それじゃまたね。お母さん」**** 病院を出たのは18時だった
――17時「はぁ……」お見舞い用の花束を抱えてため息をついていた。母に翔との関係を問い詰められるのが怖くて、青ざめていた昨日の母の姿を見るのが辛くて……ついこんな時間までぐずぐずしてしまっていたのだった。入院病棟の前で何度かため息をついて、中へ入ろうと深呼吸した時――「朱莉さん!」振り向くと、若干呼吸を乱した琢磨が立っていた。驚きのあまり、朱莉の目が丸くなる。「ど、どうしたんですか? 九条さん」すると琢磨はツカツカと朱莉の傍へ寄ると、驚く位の至近距離で立ち止まった。「あ、あの……く、九条さん……。ち、近いです……」壁際近くまで追い詰められ、身体が触れ合う程に近付かれた朱莉は花束を抱え、俯いた。その瞬間、琢磨は自分の行動に初めて気づいて慌てて距離を取った。「ご、ごめん……翔から朱莉さんのお母さんが昨夜救急車で運ばれたって話を聞かされて……つい……」謝りながら、琢磨は自分自身で驚いていた。距離感が分からなくなるくらいに我を失うなんて今までの人生で経験したことが無かったからだ。「い、いえ。いいんです。それだけ気にかけていただいたってことですよね? ありがとうございます。翔さんの秘書と言うだけで私にまでご親切にしていただいて感謝しています」「朱莉さん……」「あ、今母の面会に行くところなんです。だから……」どうぞお帰り下さい、朱莉はそう伝えるつもりだったのだが……。「俺も面会……させて貰えるかな?」琢磨は朱莉に紙バックを差し出した。「え……? これは何ですか?」朱莉は差し出された紙バックと琢磨の顔を交互に見て、首を傾げた。「朱莉さんのお母さんは入院されているから食べ物は駄目だろうと思って、江の島の雑貨店でマグカップを買ってみたんだ。気に入ってもらえるかは分からないけど……」少し照れた様子の琢磨を朱莉はじっと見つめる。「九条さんて……何だか意外ですね」「意外?」首を傾げる琢磨。「はい。何だか意外です。翔さんの副社長の秘書という立派な仕事をされている方だったので常に冷静沈着な方だと思っていたんです。日常生活でも……」「……」琢磨は黙って朱莉の話を聞いていた。「でも、親しみやすさもあって……そういうところ、いいなって思います。マグカップ、どうもありがとうございます。母に手渡しておきますね」「朱莉さん。俺は面会させて貰